明治十八年洪水碑  -淀川氾濫と堤防修築-

明治十八年洪水碑
右手奥 信号の側に立つ
概  要

明治18年(1885)に起こった淀川大洪水の記念碑。この年の梅雨はひどい長雨で、ひと月に渡って降り続けた。増水により堤防は大きく崩れ、摂津せっつ河内かわち地方の実に300村以上に被害が及んでしまう。数百メートルも崩壊した茨田まんだみつ村(現大阪府枚方市)沿岸の堤防の修築には、膨大な資金と人力が投ぜられ、大阪府や内務省土木局の計画・指揮、そして役夫の勤勉により、わずか40日余りで竣功。この間、皇族による被災地域の慰問があり、官吏と役夫達を勇気づけた。彼らはこれらの顛末を碑文にし永遠に伝えたいと考えたという。碑は翌年、新築堤防の上に建てられた。建碑主体の明記はないが、内容から官側の主導と見られる。ここはきょう街道かいどう枚方ひらかた宿跡で、当時国道が通っていた。交通の要所にて、官による事業の偉大さを誇示する狙いがあったと考えられる。他方、被災住人の困窮・救済に触れるところは多くない。

資料名 明治十八年洪水碑
年 代 明治19年(1886)
所 在 公道脇・国土交通省 淀川河川事務所 枚方出張所 敷地内|大阪府枚方市桜町
 北緯34°48’42″ 東経135°38’10”
文化財指定 枚方市登録有形文化財「明治一八年洪水碑」(平成26年4月1日登録)
資料種別 石碑
碑文類型 同時代的事件(災害)
備 考 資料名は題字による。碑面題字の五字目「ねん」は、「年」の異体字のため「年」と表記する。
ID 0051_2408

目次

翻刻

  〇オモテ面
明治十八年洪水碑

  〇側面
碑面窠八大字係于議定官陸軍少将二品勲一等久親王
                大阪〔府ヵ〕知事従〔五ヵ〕野郷三謹書

  〇ウラ面
河洪水碑銘
維歳明治乙酉夏(十八年)六月、雨弥月、澱河漲。堤防大崩、漂没河諸郡三百三十七村。
下民墊、人畜死亡、流失舎者、二千九十餘戸。府知事建野氏聞事急、先遣大書記
官遠藤氏、率其属、据経営、疏鑿水道、尋親臨之、計画工事。時土木局長島通
庸、与四等技師田辺義三郎亦臨之、協議力、修理堤防、粗就緒。会
車駕巡幸*(一字台頭)山口県。乃 詔親王北白(能久)川宮、代巡撫隠。於是、官吏与躍奮励、
相慶曰、是家之恩也。諸員之力也。安可不記其所自、伝之不朽乎哉。乃〔条〕其実。一
曰潰決。内国茨田郡三矢村沿河堤防、係于摂官道者潰決凡二次。前者則七十
餘間。後者則六十間強。合前後百三十間餘。二曰水量。六月十七日、水量〔加〕一丈四尺
八寸。其七月一日、則一丈三尺八寸。三曰修築。起工于七月十二日、其八月三十日竣
工。中間廑四十餘日耳。其成功俊速如此者、視之至与役徒勉之所致也。而其
係于新築者、二百十九間餘、而用豚木石者、都十餘〔万ヵ〕。四曰工徒。用人者、十五万二
千六百三十人。五曰工費。費金者、四万九千三百十二円四十三。嗚呼、其竭人力之
巨、費工□□〔費之ヵ〕大、皆河水暴漲所据。繇是観之、其傷害人民、流亡家屋、水反有甚於火
者也。故子産有言曰、火烈而水弱。烈者民望而畏之。故鮮死焉。弱者狎而翫之。〔則ヵ〕
死焉。其有以也。吾称此挙曰、之遺愛、亦無愧。因為之銘曰、
  〔性ヵ〕可畏、 可畏者幸身。 水之□□□〔性可狎ヵ〕、 可狎者害人。 克覚斯理者、
  可治水治民。 不朽銘偉績、 遺愛伝千春。
明治十九年丙戌九月   平安 池純撰文  丹波 小畠〔正ヵ〕心書

現代語訳

  〇オモテ面
明治十八年洪水碑

  〇側面
碑面の大書八文字は、ていかん・陸軍少将・ほん勲一等よしひさ親王の立派な筆跡によるものである。
                大阪府知事従たて郷三ごうぞうが(側面の字を)謹んで書す。

  〇ウラ面
よどがわ洪水めい
年は明治18年(1885)の6月、ひと月中降り続いた長雨によって、淀川の水量が俄かに増した。堤防は大々的に崩れ、摂津・河内諸郡の337村を水没させてしまった。下々の民達は水害に困窮し、人も家畜も死に、2090戸余りの住居が流失した。大阪府知事建野氏は、事態の緊迫していることを聞くと、まず大書記官遠藤氏を派遣し、その部下を引率させて一生懸命に工事を行い水道を疎通させた。次いで自らここに臨み、工事を計画した。時の内務省土木局長三島みちつねも、四等技師田辺義三郎と共に現地に到った。協議し力を合わせて堤防を修理し始め、(その工事は)おおよそ完成までの糸口が得られるまでになった。当時たまたま天皇は山口県を巡幸なさっていた。そこで北白きたしら川宮かわのみや能久親王に詔勅を下し、代理で当地を巡らせて民の苦しみを慰めさせたもうた。このため、官吏も人夫も踊りあがるほどに喜び、気力を奮い起こして(工事に)努め励んだ。額に手を差し出して敬意を示し、この幸いを喜んで言う、「(修理工事がうまくいきつつあるのは)天皇陛下の恩恵のためであるし、諸員の尽力のためである。どうしてその由来を記し永遠に伝えないでいられようぞ」と。そのため、実状を箇条に列記する。
  〇以下適宜改行する。
第1は、決壊状況である。河内国茨田まんだみつ村の沿岸堤防の、京都・摂津間官道にかかる部分が、およそ2回決壊した。前者は70けん(約130メートル)余り、後者は60間(約110メートル)強で、前後合わせて130間(約240メートル)余りだった。
第2は、水量である。6月17日、水かさが増して1丈4尺8寸(約444センチメートル)に至った。7月1日は、1丈3尺8寸(約414センチメートル)だった。
第3は、(堤防の)しゅうちくである。7月12日に起工し、8月30日に竣工した。その間、わずかに40日余りだけである。このように迅速に竣功へと至ったのは、(親王の)巡視が十分に行き届いたものであったのに加え、人夫達が精を出して努めたからである。そして、(堤防の)新たに築いたところは、219間(約399メートル)余りで、合計10万余りののう・木石を用いた。
第4は、工事人夫である。使役した人夫は、(延べ)15万2630人。
第5は、工費である。費やした金額は、4万9312円43銭だった。
ああ、多数の人力を尽くし、膨大な工費を支出したのは、みな河川の氾濫に由来している。以上より次のように考えられる。人民に害を成し、家屋を流失させることについては、水は、却って火より甚だしいものがある。(中国春秋時代の政治家である)てい国のさんは確かに次のように言っている。「火は強くて厳しいものだが、水は弱々しい。強くて厳しいものであれば、民はこれを眺めただけで恐れる。だから火で死んでしまう者は稀である。弱々しいものであれば、(民は)慣れてしまってもてあそぶほどである。だから(油断して)水で死んでしまう者が多いのである(だから水も気を付けなければいけないぞ)」と。(火で死ぬ人が少なく、水で死ぬ人が多いのは)理由があることなのである。私は、この古のあい、すなわち昔の人が仁愛の心で遺した言葉に恥じ入ることが無いという点で、この(堤防修築の)事業を称賛するのである。そのため以下の通り銘(詩)を成す。
  〇以下押韻ごとに改行。
火というものは恐ろしく、恐ろしきは(かえって)身を栄えさす。
水というものは慣れやすく、慣れやすきは(かえって)人を損なう。
よくよくその理を悟れば、水を治め民を治めよう。
永遠にこの偉大な功績を記し、(さんの遺した)仁愛の心を千載に伝えよう。
明治19年(1886)9月

訓読文・註釈

  〇オモテ面
明治十八年洪水碑

  〇側面
碑面はく八大字、ていかん陸軍少将ほん勲一等よしひさ親王のせいかんかかる。
                大阪府知事従たて郷三ごうぞう謹んで書す。

  〇ウラ面
よどがわ洪水めい
としに明治きのとのとり夏六月、りん月にわたり、澱河にわかにみなぎる。堤防大いに崩れ、摂河せっか諸郡三百三十七村をひょうぼつせしむ。下民昏墊こんてんし、人畜死亡し、しゃを流失すること、二千九十餘戸。府知事建野氏、事の急なるを聞きて、先づ大書記官遠藤氏を遣し、其のりょうぞくひきゐしめ、拮据きっきょ経営し、水道をとおうがち、いでみずかここに臨み、工事を計画す。時の土木局長三島みちつねも、四等技師田辺義三郎とともここに臨み、協議りくりょくし、堤防を修理すること、あらあじょうしょく。たまたしゃ、山口県を巡幸す。乃ち親王北白きたしら川宮かわのみやみことのりし、代りて民隠みんいんじゅんせしむ。ここに於いて、官吏と役徒と踊躍ようやく奮励ふんれいし、手額しゅがく相い慶して曰く、かんの恩なり。諸員の力なり。いずくんぞ其のる所を記して、これきゅうに伝へざるべけんやと。乃ち其のじつじょうす。一にふは潰決かいけつなり。河内国茨田まんだみつ沿えんの堤防の、きょうせつ官道に係る者の潰決することおよそ二次。前は則ち七十餘間。後は則ち六十間強。前後を合せて百三十間餘りなり。二に曰ふは水量なり。六月十七日、水量の加はること一丈四尺八寸。其の七月一日は、則ち一丈三尺八寸なり。三に曰ふはしゅうちくなり。工を七月十二日に起し、其の八月三十日に工をふ。中間、わずかに四十餘日のみ。其の成功の俊速なることくの如きは、巡視のと、えきびんべんとの致す所なり。而して其の新築に係るは、二百十九間餘りにして、とん木石を用ふること、すべて十餘万。四に曰ふは工徒なり。人を用ふること、十五万二千六百三十人。五に曰ふは工費なり。金を費すこと、四万九千三百十二円四十三せん。嗚呼、其の人力のおおきをつくし、工費の大きを費すは、皆河水ぼうちょうこんきょする所なり。是れにりて之を観るに、其の人民を傷害し、家屋をりゅうぼうするは、水かえりて火より甚しきもの有るなり。もとよりていさんげん有りて曰く、火ははげしくして水は弱し。烈しきは、民望みて之をおそる。故にこれに死するものすくなし。弱きは、れて之をもてあそぶ。則ち焉に死するもの多し、と。其のゆえ有るなり。吾、此の挙をしょうして曰く、古のあいも、ずること無しと。りて之がめいして曰く、
  〇以下押韻ごとに改行。
火の性、畏るべし。畏るべきは身をさきわふ。
水の性、るべし。狎るべきは人をそこなふ。
ことわりさとれば、水をし民をすべし。
不朽にせきめいし、遺愛せんしゅんに伝へん。
明治十九年ひのえいぬ九月   平安 菊池純撰文  丹波 小畠正心書

*擘窠 大字。

*能久親王 1847~95。幕末~明治時代の皇族・軍人。北白川宮第2代。幕府瓦解時に東北諸藩に擁せられ、新政府に敗北後謹慎処分を受けるも後に赦免。軍人の道を歩み、日清戦争には近衛師団長として出兵。戦後台湾平定の途中に病没。実際に被災現地におもむき諸事を目撃した親王が題字を揮毫をすることで、碑文の信憑性を高める狙いがある。

*盛翰 立派な書き物。筆跡。

*建野郷三謹書 建野郷三(1841~1908)は、幕末~明治時代の武士・官僚・実業家。豊前小倉藩藩士。大阪府知事・アメリカ公使兼メキシコ公使をつとめた。「謹書」の意味は、この碑側面の文章を筆書したということ。この一文は、やや窮屈な形ではあるが、府知事建野が碑の造成に関与したことを明示する。

*澱河 淀川。

*霖雨 長雨。

*暴漲 俄かに水がみなぎること。

*摂河 摂津国と河内国。

*昏墊 水害に会って苦しむこと。

*廬舎 住居。

*僚属 部下の役人。

*拮据 一所懸命に働くこと。

*躬親 その身みずから。

*三島通庸 1835~88。明治時代の官僚。もと薩摩鹿児島藩士。酒田・鶴岡・山形・福島・栃木等の県令をつとめ、各地で道路、学校、庁舎などの建設をおしすすめる。地方の実情を軽視した強引な方策は、しばしば住民と摩擦を生じた。洪水が発生した時は、内務省土木局長。内務省が堤防の修築に関与しているのは、堤防上を「官道」が通っていたからと考えられる(「*京摂官道」参照)。

*戮力 力を合わせる。

*条緒 秩序立てられた、解決への糸口。「条緒に就く」とは、工事完成までの確かな糸口がつかめたというほどの意味であろう。

*車駕 原義は、天皇の乗るくるま。ここでは明治天皇。

*民隠 民衆の痛み、苦しみ。

*役徒 工事に従事している人々。

*踊躍奮励 踊躍は、おどりあがること。奮励は、気力を奮い起して行ない励むこと。

*手額 両手を額の前に据えて敬意を表す。中国的な動作表現であって、実際にこの動作がなされたわけではないと考えられる。

*官家 天子。

*条記 条文にして記すこと。

*河内国茨田郡三矢村 現大阪府枚方市三矢町あたり。淀川左岸域に当たる。

*京摂官道 京都と摂津大阪とを結ぶ国道。京都伏見から大坂(大阪)に至る街道で、京街道・大坂街道とも。もと豊臣秀吉が淀川の河道を改修し、いわゆる文禄堤を築造した際、その左岸堤防上が道路となったもの。江戸時代、幕府公用の主要道路となって守口宿・枚方宿(現枚方市)・淀宿・伏見宿の四つの宿駅が置かれ、明治期も国道として維持された。現在ここを通る大阪府道13号線が、当該の道路。本碑は、京街道沿いの枚方宿跡に立つ。

*巡視 (一)能久親王の巡視、(二)工事役人による現場の巡視、の2つの可能性がある。前者をとる。

*備至 行き届いている。

*黽勉 励みつとめること。

*土豚 土嚢。

*泉 ぜに。貨幣。つまり貨幣単位の銭(せん)。

*根据 根拠とする。基づく。

*鄭子産有言曰・・・ 鄭子産は、中国春秋時代鄭(てい)の国の政治家公孫僑(こうそんきょう)。子産は、その字。引用部分は、『春秋左氏伝』昭公二十年「夫火烈。民望而畏之。故鮮死焉。水懦弱。民狎而翫之。則多死焉。(中略)及子産卒、仲尼(孔子)聞之、出涕曰、古之遺愛也」に基づく。水の潜在的な危険性を後代へ警告するのが子産の発言の意図だと、撰者は解釈していると思われる

*知称 認め知り称賛するとの意と見られる。

*古之遺愛亦無愧 解釈やや難。「古之遺愛」は、古の人がこの世に残した仁愛の風。具体的には、子産が言う、水の潜在的危険性を述べた言葉が該当すると思われる。官側が淀川堤防修復を大々的かつ迅速に行ったのは、水の危険性を十分に熟知しているからであって、子産の「遺愛」に「愧」じることがない、と言いたいのであろう。

*火之性可畏・・・ 五言古詩。韻字、身・人・民・春(上平声十一真)。

*菊池純 菊池三渓(1819~91)。幕末~明治時代の漢学者。紀伊国の人。

画像

全景 1 (撮影日:’23/02/08。以下同じ)
全景 2
道路は、旧京街道。現大阪府道13号線。
側面
ウラ面 その1
ウラ面 その2
ウラ面 その3
石碑近傍の堤防上から淀川を見る
河川敷から堤防・石碑を見る

その他

補足

  • 判読困難な箇所は、『淀川左岸水害予防組合誌』『四条畷市史』を参考にした。
  • 碑文に建碑場所の明記はないが、建碑式について記した同時代の記録(「浸水日誌」)によれば、明治19年(1886)11月7日に「茨田郡三ツ矢村(切レ所)新堤上ニ於テ、建碑ノ式」が成されたとあり、当初の所在地を知ることができる。以降所在地を大きくは変えることなく、現在まで立ち続けていると考えられる。
  • 明治18年淀川洪水に関係する碑を下記の通り公開しています:
    • 「澱河洪水紀念碑銘」(大阪市都島区)は、こちら
    • 「淀川改修紀功碑」(大阪市北区)は、こちら
    • 「赤井堤紀念碑」(大阪府寝屋川市)は、こちら

参考文献

  • 淀川左岸水害予防組合編『淀川左岸水害予防組合誌 前編』(1926年)巻頭図版。
  • 『四条畷市史 第三巻 史料二』(四条畷市、1983年)379~81頁。

所在地

明治十八年洪水碑 および碑文関連地 地図

所在
公道脇(国土交通省 淀川河川事務所 枚方出張所 敷地内)|大阪府枚方市桜町

アクセス
京阪本線 枚方公園駅 下車
徒歩約10分

編集履歴

2024年8月26日 公開
2024年8月30日 小修正
2024年11月2日 小修正

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